【湖北史記 其の31 】妙法寺の秀勝廟と秀吉の子

 長浜市大宮町に妙法寺という寺がある。秀吉の命(めい)により、小谷城下から長浜町の南東に移転された日蓮宗寺院である。天正4年(1576)10月14日、秀吉の男児が夭折(ようせつ)し、その子を葬った寺として、寺の東奥の本堂裏手に「秀勝公御廟(ひでかつこうおんびょう)」が祀(まつ)られていた。男児は「秀勝」と言ったというのが寺伝である。平成14年に、この廟所(びょうしょ)は本堂前に移転されている。

 秀吉には長浜城主時代に実子が生まれ、その誕生を祝って町内に砂金が配られ、それを元手(もとで)に、曳山が造られ祭が始められたと言われる。その実子に当たるのが、この妙法寺に葬られた「秀勝」であるとも言われて来た。実は、秀吉はこの「秀勝」という名前に、非常に執着しており、信長の五男で一時、秀吉が長浜城を預けた於次(おつぎ)秀勝、さらには姉ともの子で関白秀次の弟にも、小吉(こきち)秀勝の名を与えている。小吉秀勝は浅井三姉妹の三女江(ごう)の二番目の夫でもある。

 平成15年、長浜市は墓石を移転した跡地を発掘しており、骨壺(こつつぼ)や副葬品は確認できなかったものの、出土した石囲(がこ)いの埋葬施設を織田・豊臣期の大名一族の墓と結論づけている。廟所の中の墓石正面には「朝覚霊位(ちょうかくれいい)」と刻まれ、両側面には「天正四年」・「十月十四日」と命日が記される。また、妙法寺には昭和27年の本堂焼失まで、「本光院朝覚居士(こじ)」と記された童子像が現存していた。この童子像の白黒写真が残っており、今も墓前の説明陶板に印刷されている。この「朝覚」の俗名が「秀勝」であるという寺伝である。

 長浜周辺の寺には、この「朝覚」に関する古文書などが伝来する。知善院には「朝覚」の供養として、秀吉が寺領30石を寄進したと言われ、その寄進状写が伝存する。また、浅井三代の菩提寺として知られる徳勝寺(平方町)にも、堀部村(長浜市堀部町)にあった医王寺(徳勝寺の前身の一寺)に、同じく30石を寄進したと伝え、その寄進状の原本が伝来し、秀吉と「朝覚」が併記された位牌(いはい)も現存する。

 さらに話を混迷させるが、竹生島に秀吉の家族や家臣が金品を寄進した奉加帳が現存するが、その家族の位置に「石松丸(いしまつまる)」という子ども(「御(お)ちの人」とある)が記され、その二行後に書かれた「南殿」が、秀吉の側室で「石松丸」の母であるという説もある。この「石松丸」が、「朝覚」や「秀勝」と同一人物かは、まったく分からない。

 妙法寺に埋葬された秀吉子息の話は、実子か養子か、はたまた秀吉の親類か真相は今も闇の中である。あるいは、廟所に葬られた人物は、秀吉の姉・ともが熱心な日蓮宗信者なので、その周辺の人物と考えることもできる。

妙法寺の秀勝(朝覚)廟(現状)

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年7月11日掲載)

掲載日: 2026年05月29日