【湖北史記 其の30 】秀吉の開町と長浜の旧町名 ②

 前回に続き、長浜町の旧町名の由来を探ってみよう。

 「鍛冶屋町」は、知善院町の南で善隆寺がある町。鍛冶屋が集住したので、この名前があるのだろう。元禄8年(1695)の記録には、鍛冶屋が一軒のみ残っている。関連して「金屋(かなや)町」と「金屋新町」。「金屋町」は、平成15年に開園した金屋公園(滋賀銀行御堂前支店跡)で身近な地名となった。曳山の金屋席も町名が由来。「金屋新町」は、鍵の手に曲がった金屋町から、駅前通りの方へ延びる町である。金物商人が多く移り住んだことから、これらの名前がある。元禄8年の記録でも、両町合わせて鍋屋が6軒、鍛冶屋が5軒と、町の特色をよく保持している。

 「中鞴(なかたたら)町」は、長浜城の二重の外堀の間で、南北に細長い町。えきまちテラス長浜の南の浄国寺付近を中心に南北に延びる。町名の由来は、武器と貨幣を鋳造する職人が多く集住したからと言う。鞴ははフイゴ(送風機)を意味し、鉄の加工には必需品である。旧長浜城内の軍需工場の場所が、廃城後に長浜町に編入されたと考えられる。

 現在「祝(いわい)町」の名で知られている東西通りは、江戸時代は「魚屋(うおや)町」と呼ばれた。北国街道から西が「西魚屋町」、同じく東に「中魚屋町」、鍛冶屋町と大谷市場町を挟んで、「東魚屋町」が続く。もちろん、魚屋が集住した場所である。長浜では魚を扱う店を納屋(なや)と呼んだが、元禄8年の記録では中魚屋町に2軒、東魚屋町に8軒の納屋が確認されている。当時までは、魚屋町としての体裁をよく保っていたようである。

 覚応寺がある南部の町・紺屋(こんや)町は、もちろん染物屋が集住した町である。元禄8年の記録では8軒もの紺屋が残っており、開町当時の面影を保っていた。道の南を流れる水路では、紺屋が染物を洗ったと言われている。

 長浜幼稚園がある「上船(かみふな)町」。その南に「大安寺町」を挟んで南に延びる「下船(しもふな)町」。これらは、いずれも北国街道沿いだが、その西に並行して南北に延びる「小舟(こぶな)町」や「船片原町」もある。以上四町は、船舶関係の仕事に従事した人びとが多かったことによる命名である。「上船町」や「下船町」の西に並行して流れる米川には、船荷を入れる蔵が建ち並んでいた。本町に向かって上・下が付けられているのは、呉服町で述べた原則通りである。元禄8年の記録では、下船町で船持8軒、船大工1軒。小船町では全戸数35軒の内、27軒が船持、船片原町では全13戸が船関係者と町名と職種がよく合致している。

 このように、長浜町の旧町名は、この地の歴史を語る重要な歴史資料なのである。

下船町石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年6月26日掲載)

掲載日: 2026年05月22日