【湖北史記 其の29 】秀吉の開町と長浜の旧町名 ①

 羽柴秀吉は、浅井氏を滅亡させた天正元年(1573)頃から長浜城下町の建築を開始する。秀吉の時代、長浜の町は49町で構成されていた。その後、「大手片原(かたはら)町」が北・中・南に分かれ、長浜城内であった「中鞴(なかたたら)町」が、新たに町域に加えられることで、江戸時代初期には52の町割となった。この町割は、明治12年(1879)に至るまで変化なく、かつての長浜の町民にとって、非常に馴染み深い地名となった。

 よく江戸時代の町名と混同されるのが、明治12年に成立した町名である。52町の中で、2~4町を合併したものだ。この時成立した新・大手町のように、旧52町の「大手町」と「大谷(おおたに)市場町」を合併して、単に区域が大きくなった町もある。しかし、多くの場合、新しい地名が成立した。「相生(あいおい)町」・「祝(いわい)町」・「錦(にしき)町」・「永保(えいほ)町」・「栄船(えいせん)町」などである。これらは、目出度い地名=瑞祥(ずいしょう)地名が多く、地名の命名方法としては優等生とは言い難い。

 現在、52町の区域は、南呉服町・元浜町・大宮町・朝日町などの町名になっている。これらは、昭和39年(1964)から同40年にかけて実施された新住居表示によるもので、先しか見ない高度成長期が生んだもの。郵便配達等の事務的な都合により、一方的に造語され命名された。歴史を重視する現在では、機械的な命名ですこぶる評判が悪い。地名は長い年月をかけて市民権を得てきたもので、それらを簡単に否定・改変すべきではない。さらに、地名にはその地の歴史が刻まれている。昔からの地名を消し去ることは、人間で言えば姓名を損なうことに等しい。地名はその土地の個性を表わすものなのである。

 旧52町に秀吉以来の歴史があるとすれば、その町名の由来を考えてみる必要がある。それが、長浜城下町を知る第一歩となるはずである。52町は命名方法からいくつかに分類できる。ここでは、2回に分けて秀吉城下町時代の居住者の職種が、町名に反映されている町を紹介しよう。まず、「呉服町」は大手町・魚屋町の通りで分断され三町に分かれる。太鼓楼で有名な浄琳(じょうりん)寺があるのが「上呉服町」。願養寺があるのが「下呉服町」。その間に「中呉服町」がある。つまり、南から北へ向かって、上・中・下と名づけられている。これは、本町通り(駅前通り)を中心に、長浜の町名がつけられたことを示す。呉服町は、秀吉時代は呉服商人が多く集住したことから、この名前があるのだが、元禄8年(1695)の記録では、絹屋四軒が確認できるのみである。商店の入れ替わりが激しかったことを示す。 (次回へ続く)

下呉服町石柱

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年6月13日掲載)

掲載日: 2026年05月22日