今から450年前の天正元年(1573)から、羽柴秀吉は長浜城下町を建造するが、そこで町人を集めるために、年貢諸役(しょやく)を免除したという話は有名である。信長の「楽市楽座令」はよく知られるが、長浜での年貢諸役免除も、その一環とみてよい。この年貢諸役の免除政策は、天正7・8年(1579・80)頃、あまりにも農村部から町への人口流入が激しいため、城主秀吉によって中止されそうになる。しかし、秀吉の母なかの反対によって、政策が維持されたという逸話もある。
天正19年(1591)5月9日、前年に小田原北条氏を滅亡させ天下統一を果たした豊臣秀吉は、長浜の町に「町屋敷(まちやしき)年貢米三百石」を免除すると記した朱印状(しゅいんじょう)を交付した。近江国では秀吉政権による太閤検地が徐々に進められていたが、それが一段落したこの年、一斉に年貢免除を認める朱印状が、寺社を中心に出されている。ここで、長浜八幡宮・知善院などの寺社への朱印地(しゅいんち。寺社領)と同じく、長浜町の年貢免除地も、朱印状で保証された「朱印地」として、制度的に認められたことになる。
この朱印地は江戸時代に至っても存続し、幕末まで維持された。慶安4年(1651)には、朱印地(長浜領)と年貢地の境界を明確にするため、町内に「従是(これより)南長浜領」などと記された境界石柱が建造された。その数は、28本あったとされる。この石柱、現在も本来の位置に立つのは4本に過ぎない。移動されて現存するものは12本ほどある。
江戸時代の長浜では、開町の恩人である秀吉を祀(まつ)ることは、主に知善院で行なわれていた。この寺には、元禄15年(1705)、「地子(じし)報恩講」によって観音堂が建立された。この堂は、表向きは現在重要文化財となっている十一面観音坐像を安置する観音堂を建立したものであるが、実態はその「建立記」にも記されているように、秀吉からの年貢免除を感謝する目的があった。
実際、この堂には神になった秀吉を示す「豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)」の掛軸が飾られた。観音堂はカモフラージュであり、実態は年貢免除(これを「地子」と表わす)を感謝する豊国大明神堂の建立であった。この建立事業には、町年寄吉川三左衛門をはじめ、長浜町内の有力者137人が奉加に加わっていることが「建立記」から読み取れる。
江戸時代の長浜町人にとって、この朱印地は町の発展の礎(いしずえ)と認識され、秀吉信仰の核ともなっていく。この秀吉からの贈物(おくりもの)は、年貢免除が町へ与えた経済的効果より、秀吉による長浜開町と発展の象徴として、町人に誇りを与えた精神的効果の方がはるかに大きい。
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翁山の山蔵前の朱印地境界石柱(原位置を保持する1基)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年5月24日掲載)




