【湖北史記 其の26 】「鉄道唱歌」に歌われた長浜

 沿線の史跡などを詠み込んだことで知られる「鉄道唱歌」の東海道篇(全66曲)は、国文学者の大和田建樹(たてき)の作詞で、明治33年(1900)5月に出版された。音楽教育者の多梅稚(おおのうめわか)と雅楽奏者の上真行(うえさねみち)による2種類の曲が最初から付けられていた。どちらで歌ってもよいという配慮である。現在、「汽笛一声新橋を」とよく知られるテンポがよい2拍子の曲は多(おおの)の作で、叙情豊かな4拍子の上(うえ)の作曲した曲は、ほんとんど忘れ去られている。

 「鉄道唱歌」は沿線の名所旧跡を歌い込んでおり、沿線観光ガイドの役割を果たしたが、副題として表紙に「地理教育」とあるように、居ながらにして日本各地の情報が得られる書籍の役割も果たした。

 楽団を乗せた列車を走らせるなど、奇抜な宣伝が功を奏して、この唱歌は大流行となった。その年の9月には山陽・九州篇、10月には奥州・磐城(いわき)篇と北陸篇、11月には関西・参宮・南海篇が続々と出版されている。いずれも、作詞は大和田建樹であったが、作曲は上記の2人の他、田村虎蔵・納所(のうしょ)弁次郎・吉田信太(しんた)が起用された。しかし、テンポが良くヨナ抜きの日本音階で作られている多梅稚の曲が圧倒的に支持され、納所と吉田の作曲で出版された北陸篇ですら、多(おおの)の曲で歌われるようになる。

 すでに、「鉄道唱歌」よりも早く、明治15年には敦賀への鉄道が開通していた長浜沿線を歌った唱歌は、当然北陸篇に含まれる。同篇は上野駅を出てかつての信越本線の経路で、新潟県直江津(なおえつ)駅まで北上、そこから北陸本線を南下し米原に至るもの。米原駅で最終72番になる。68番には賤ヶ岳七本槍を詠み込み、69番が木ノ本駅で、秀吉が大返しで乗り殺した馬を埋葬したという「轡(くつわ)の森」と地蔵を詠み込んでいる。

 70番が長浜。「縮緬(ちりめん)産地の長浜に 出(い)でて見わたす琵琶の海 大津に通う小蒸気(こじょうき)は 煙ふきたて人を待つ」の七五調歌詞だ。長浜の浜縮緬は高級ブランドとして全国で通用した。また、唱歌がつくられた年には、すでに東海道線は全通しており、長浜の鉄道連絡船駅としての機能は失われていたが、長浜周辺からの旅客を大津へ運ぶ船便はまだ健在だったことが知られる。このように「鉄道唱歌」は、当時の世相を反映する史料でもある。

 長浜の旧駅舎等からなる鉄道スクエアでは、月末の30日、この「鉄道唱歌」で家康の生涯をたどろうという企画がある。是非、長浜に居ながらにして明治の旅に出かけてみないか。詳細は長浜観光協会(℡53・2650)まで。

滋賀県有形文化財となっている旧長浜駅本屋

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年4月25日掲載)

掲載日: 2026年05月15日