木之本町にある江北(こほく)図書館では、企画展「近世社会の生活と信仰~『近江伊香郡志』で収集された史料から~」を、3月26日まで開催している。
展示史料は江戸時代の古文書10点だが、その中に文化2年(1805)9月「伊能忠敬浅井郡湖縁廻浦(こえんかいほ)一件書」と表紙に記されたものがある。江戸時代に正確な日本地図を作ったことで教科書にも載る伊能忠敬(いのうただたか)。その湖北測量の模様を、浅井郡海老江村(長浜市湖北町海老江)の庄屋が領主に報告した文書である。同村の坂井家に伝来したものだ。
伊能忠敬は、17歳の時に下総国(しもうさのくに)佐原(千葉県佐原市)の豪商・伊能家の養子となり、家業を成功に導いた。49歳の若さで隠居し、江戸へ出て幕府天文方(てんもんかた)の高橋至時(よしとき)に入門、天文学を学ぶ。寛政12年(1800)に地球の緯度1度の長さを知ろうとして、東北地方から蝦夷(えぞ)地東南岸を測量する。これが、地図作成のための第1次測量となった。
以後、文化12・13年(1815・16)の伊豆七島・江戸府内の第10次測量まで、17年をかけて全国の測量を終えた。最初は私費での測量だったが、次第に幕府から与えられる便宜は増え、第5次測量からは幕府直轄の事業となる。一連の測量成果である伊能図は、江戸時代には機密資料として公開されなかったが、明治時代になって陸軍参謀本部や内務省系の地図のベースになっていった。
伊能忠敬の測量隊が、湖北を通ったのは都合3回。①享和3年(1803)5月の第4次測量で北国脇往還を北上、②文化2年(1805)9月の第5次測量で湖岸を北上、③文化3年(1506)10月の第5次測量の帰りに北国街道を南下している。今回展示の史料は、②の過程で9月8日に海老江村を測量した折の記録である。
海老江村の測量は9月8日だったが、村役人たちは6日に八木浜村(長浜市八木浜町)の宿泊所となっていた中村市右衛門(いちえもん)宅へ行き、明後日の段取りを確認している。7日は竹生島を測量したが、これには海老江村は関与しなかった。8日当日、湖岸南の安養寺村境から、北の延勝寺村境まで、海老江村の村役人が測量隊の船に乗り案内を行なっている。
夕刻には、東尾上村(湖北東尾上町)で宿泊している測量隊一行に、再び挨拶するため海老江村役人が同村を訪れている。文面(写真)からは、幕府の役人が来たことに対しての緊張感、測量終了後の開放感が伺える。実は、通常の伊能図の他に、忠敬は琵琶湖図を特別に描いている。江戸から海岸に沿いに測量を続けて来た彼としては、特別な思いでこの日本最大の湖を測量したに違いない。

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2023年3月20日掲載)




