【湖北史記 其の22】小谷城跡に建つ  徳川十六代揮毫の石碑

 大河ドラマ『どうする家康』の放映が始まっている。「湖北史記」でも、北近江の家康ゆかりの場所の紹介を続けよう。戦国大名浅井氏の居城として知られる小谷城。その大広間跡と桜馬場の間の土塁上に「小谷城阯(じょうし)碑」が建っている。昭和4年(1929)5月に浅井長政没後350年を記念して、小谷城址保勝会など地域の方々によって建立されたものである。この石碑製作の請負業者は、長浜鞴町(たたらまち)の石屋であった下村勘七(かんしち)で、今でも石碑の裏面(大広間側)にその名が刻まれている。台石は小谷山の石が使われたが、碑石は高さ4・8㍍、幅1・8㍍、厚さ0・18㍍の巨大な「仙台石」が使われ、長浜町で加工された。長浜から小谷山麓まで約10㌔。この石碑を運び、麓から標高約350㍍の地点まで上げるのは苦労が多かったと伝える。現在も番所跡上から御茶屋跡の曲輪下までつながる真直ぐな道があるが、完成した石碑を上げるために設けられた道だそうだ。

 石碑の内容は、浅井氏が京極氏の家臣から身を起こし、亮政(すけまさ)・久政・長政と世代を継ぎ、織田信長と姉川合戦や志賀(しが)の陣で戦ったこと、結局長政や久政は信長に攻められ自刃したこと、しかし長政の三人の女(むすめ)、淀や初、特に三女の江(ごう)が第二代将軍秀忠に嫁し、第三代将軍家光や、東福門院(後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう))を生んだことなどが記される。この文章を書いたのは、当時の滋賀県知事堀田鼎(かなえ)、それを清書し碑文の元字を書いたのは、滋賀県師範学校の田中乕三郎(とらさぶろう)であった。そして、碑文の上部にある横書きの題字を書いたのは、徳川十六代当主の徳川家達(いえさと)である。

 徳川家達は、徳川御三卿(ごさんきょう。江戸中期に出来た徳川家一門の家系、将軍や御三家に子がない場合、その家を相続するために設けられた)の一家であった田安徳川家の出身である。鳥羽伏見の戦い以後、謹慎となった第15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)に代わり、徳川宗家を継いだ人物で、その後、貴族院議長を30年務めた。

 浅井氏の血は、確かに江を通して徳川将軍家に入っているものの、信長と同盟し、どちらかと言うと、浅井氏を滅ばした側の家である徳川家の当主に、題字を依頼したことになる。その点、当時の小谷地域の人々の思いは、奈辺(なへん)にあったのかと複雑な思いがする。この碑文は、滅亡してから女系で栄えた浅井氏の姿を、徳川家の繁栄と重ねて感じることが出来る記念碑だ。近代のものとは言え、家康が創始した徳川将軍家ゆかりの文化財と言えよう。

題字に徳川第十六代家達の文字が見える「小谷城阯碑」

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年2月24日掲載)

掲載日: 2026年05月08日