【湖北史記 其の20 】徳川家康の祖先と菅浦

 大河ドラマ『どうする家康』が8日から放映になる。徳川家康は、天文11年(1542)12月26日、三河国岡崎城にて誕生した。徳川(松平)氏の先祖は、十五世紀前半から動向が追える三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市)の地侍であった。松平家は徐々に勢力を伸ばし、三河国内では「十八松平」と言って複数に分流したとされる。徳川家康(初名は松平元信・松平元康)は、その松平家の一つ安城(あんじょう)松平家の流れで、家康の子ども時代には安城から岡崎へ本拠を移していた。その祖先が、歴史上に最も早く登場する古文書が、国宝「菅浦文書」の中に保存されている。

 菅浦(長浜市西浅井町菅浦)は、集落そのものも国の「重要文化的景観」に選定され、中世の惣村の姿を今に伝える集落として著名だが、室町時代中期には日野富子(とみこ)で著名な日野家が領主であった。その菅浦と隣郷大浦の代官を務めたのが、三河国からやって来た松平家(徳川家)の祖先の益親(ますちか)であった。安城松平家の家祖は、家康の五代前の親忠と言われるが、その父・信光の弟が益親である。寛正(かんしょう)2年(1461)10月13日、隣村大浦との裁判に負けた菅浦を、周辺の国衆(くにしゅう)や村人、それに三河国からの援軍を引き連れた益親が包囲し、亡所(ぼうしょ)としようとした事件の記録が「菅浦文書」に残っている。結局、菅浦の乙名(おとな。村の代表者)が代官益親の許へ決死の覚悟で出頭し、この時の合戦は回避された。

 その後も、この益親は大浦庄の支配について、寛正4年(1463)から翌年にかけて、村人と対立し訴訟になっていることが同文書から知られる。大浦の村人が訴えた内容は、益親の姿勢が対立する菅浦寄りと非難する大浦庄の名主(みょうしゅ)二人を殺害、三人を追放したこと。そのため所有者が不在となった耕地につき、作人を雇って直営田として経営していること。殺害・追放した名主が負っていた税金を、残った名主に割り振り、未進があれば高利で徴収すること。さらには、山野の柴木や魞(えり)を勝手に支配し、益親の配下の者の不法も目に余ると訴状にある。

 これに対する益親の陳状(ちんじょう。答弁書)も残されている。そこでは、名主たちを殺害・追放したのは、他所の悪党と語らい益親の殺害を計画したからとする。一方、柴木については百姓の分も確保していること。さらに魞は本来代官が管理するものだと記す。

 決着は史料がなく不明だが、徳川家康は、織田信長に従っての敦賀攻めや姉川合戦に際してこの地を訪れた時、祖先が100年余り前、活躍した場所と知っていたであろうか。北近江と家康との関りは、意外と深いかもしれない。

松平益親の文書が伝わった長浜市西浅井町菅浦

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2023年1月5日掲載)

掲載日: 2026年05月01日