11月29日の本紙でも紹介されたが、長浜市内保町に「内保河原の合戦跡」と記された石柱が、「内保誌の会」の手により建立された。この合戦は、享禄(きょうろく)元年(1528)8月13日に内保町を流れる草野川で行なわれた。ただ、場所を特定できないので、内保警官駐在所西の霞堤(かすみてい)北に建立された。この合戦、守護京極高清の継嗣である高延(たかのぶ)と、その弟・高慶(たかよし)の兄弟同士の戦いと言われている。しかし、実態は台頭間もない戦国大名・浅井亮政と、南近江に勢力を持つ六角定頼との代理戦争であったと考えられている。浅井は高延、六角は高慶を推していた。
少し遡るが、浅井亮政は、大永3年(1523)に起きた「大吉寺梅本坊の公事」の結果、京極高清に代わり北近江の統治者となった。この「公事」とは、長浜市野瀬町にある古刹大吉寺で行なわれた高清の後継者を決める会議であったと推定される。継嗣を高延にするか、高慶にするかで激論が交わされたものと見られる。結局、協議は決裂、高延を推す浅井氏らの国衆(くにしゅう)連合と、高慶を推す高清政権を支えてきた上坂氏との合戦に及ぶ。上坂氏の当主信光は、今浜城などで合戦に敗れ、高慶とその父・高清は、居城である上平寺を自焼し、尾張に逃亡した。
この合戦の後、国衆連合の盟主として、一時期は浅見貞則(さだのり)が政権を握ったようだが、やがて失脚、浅井郡丁野(小谷丁野町)を本拠とする亮政が台頭するという歴史がある。しかし、この亮政の時代、尾張から戻った高慶を擁した六角定頼の侵攻に度々悩まされていた。「内保河原の合戦」も、この浅井・六角の戦いの延長線上で考えることができる。一方、国内復帰後の高慶の本拠だが、河内(米原市梓河内)や男鬼入谷城(おおりにゅうだに。多賀町)などが候補に上がるが、正確な所は分からない。
坂田郡飯村(いむら。米原市飯)の地侍若宮氏に宛てた9月11日付けの京極高慶書状(若宮文書)が残る。この文書では、高慶が「内保河原の合戦」において怪我(けが)をした若宮藤右衛門尉の戦功を労い、敗戦を「無念」としながら、今後さらなる忠節を求めた内容である。この文書以外、本合戦についての史料は皆無に近い。
今回の石柱建立者は、「次代を担う若者に、地元の歴史を知って、学んで欲しい」と話す。確かに、石柱を建立することで、多くの方に必ずしも有名でないこの合戦を覚えてもらえるだろう。合戦の歴史は、もちろん「負の歴史」である。しかし、それを正面から考えることも、我々は地域の将来を考える上では必要なことだ。それは、人の経歴と同じ、地域の経歴だからである。

内保町に建立された「内保河原の合戦跡」石柱
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年12月21日掲載)




