11月15日の本紙でも紹介されたが、現在「余呉茶わん祭の館」において、企画展「江戸時代の山村の姿」が開催されている。この展覧会は、伊香郡上丹生村(長浜市余呉町上丹生)の太郎次郎家の伝来文書を展観するものである。同家は、幕末に上丹生村の庄屋を務めていたので、同家の文書のみでなく、村の行政文書も含まれている。
内容は江戸後期における丹生谷の積雪量に関する文書、宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)と呼ばれる上丹生村の寺院も含めた戸籍、江戸時の村内の組分け状況、庄屋が所持する文書の一覧など、上丹生村の江戸時代の日常生活が知られる。
その中で、「奥村々鉄砲書上帳」と題された冊子は興味深い。縦25㌢、横117㌢で、弘化2年(1845)3月と表紙に記される。丹生谷周辺の村々である大見村・下丹生村・上丹生村・菅並村・鷲見村について、村にある鉄砲の数と玉目の大きさ、それに預り主(保管者)の名前を登録している。各村の所持数は上丹生村2挺の他は1挺で、3匁玉筒(もんめたまつつ)から3匁5分玉筒(口径12㍉前後)の標準的な火縄銃であった。
用途は猪・鹿による獣害を防ぐため、玉込めしない空砲の「威(おどし)鉄砲」として使用したとある。また、他人は勿論、親類にも貸し出すことはないと誓約する。上記各村が連名で幕府の信楽代官所に出した形であるが、本書に上丹生村庄屋以外の押印がないのは、同村でこの冊子を作成した控で、印が押された原本は幕府(信楽代官所)へ提出されたのだろう。
豊臣秀吉の刀狩令(かたながりれい)によって、農村にあった武器としての鉄砲は、建前上なくなったことになる。しかし、実際には届出制度のもと、獣害対策である「威鉄砲」や、狩猟用の火縄銃は、江戸時代の村で所有できることになっていた。国友鉄砲鍛冶の家に残った慶応3年(1867)6月の「国友鍛冶仲間定書」には、「猟鉄砲」を製作したことが発覚すれば、見つけ次第にその製品を取り上げると記している。ここに規定しなければならない程、幕府鉄砲鍛冶である国友でも、狩猟用の鉄砲を製作していた。
江戸時代の武家文書でもそうだが、鉄砲に関する記述には、不思議とその生産地が書かれていない。届出制度の中では、鉄砲がどこで製作されたものかは不要な情報だったと言えよう。丹生谷にあった鉄砲の産地も不明だが、近くに日本有数の鉄砲生産地・国友があることから、その多くは国友製と考えていいだろう。企画展は12月11日まで、土日のみ開館。
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奥村々鉄砲書上帳(部分)
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年11月29日掲載)




