【湖北史記 其の17】石田三成の岩窟

 去る10月17日、長浜観光協会主催の三成ツアーで、大雨のなか久しぶりに石田三成が隠れた「オトチの岩窟(がんくつ)」を訪ねた。長浜市木之本町古橋の己高庵(ここうあん)から、最近整備された尾根道をたどり、約2時間かかって標高560メートルの地にある岩窟にたどり着く。岩窟は岩が崩れ真横には入れない。梯子やロープを伝って4・5メートル程下る感じで中に入る。そこには六畳ほどの空間が広がり、天井には多くの羽を閉じたコウモリが下がり動かない。

 関ケ原合戦で敗れた三成の捕縛情況を記した、同時代の史料は残念ながら存在しないので、江戸時代成立の編纂物(へんさんぶつ)を頼りにするしかない。幕府が編纂した大名・旗本の系譜集『寛政重修諸家譜(かんぜちょうしゅうしょかふ)』では、三成捕縛の経緯を以下のように伝える。三成は近江国草野(現在の長浜市上・下草野・米原市東草野)で樵(きこり)の姿をして隠れていたが、田中吉政の家臣・田中伝左衛門正武が怪しんで尋問した。三成は自分が樵であると答えたが、その面を知っている者が捜査隊の中にいて生け捕ったとある。このように、古橋以外での捕縛を伝える書もある。

 一方、『田中興廃記』では、次のように記す。三成捜索のため北近江に至った田中吉政は、井口村(長浜市高月町井口)に陣所をおき、諸方へ兵を遣わして探索に当たった。三成は合戦場からの逃亡の途中で、腹痛をおこし歩行もままならぬ状態であった。古橋村までたどりつき、同村の与次郎太夫に匿(かくま)ってもらった。しかし、周囲に敵の探索がのびたことを知った三成は、匿っている者たちに迷惑がかかることを嫌い、与次郎太夫に自身の居場所を吉政に告げるよう促す。与次郎太夫は最初申出を断ったが、三成の強い意志を察し、吉政のもとに三成潜伏を通報した。すぐさま、吉政の家臣である田中伝左衛門・沢田少右衛門が古橋村を訪れ、三成に縄をかけ乗物に乗せて、井口村まで連行したとある。

 最近になって、古橋の庄屋文書から、越前福井藩の家臣であった大関彦兵衛・田中勘助(かんすけ)が、田中伝左衛門の子孫と称して古橋村を訪れた時の経緯を記した文書が発見された。それによると、三成は庄屋次左衛門宅の縁の下で生け捕られたと記している。その他、高時川の河原で捕縛されたという伝承も古橋には伝わる。

 要は、三成捕縛の状況については、江戸時代以来複数の説があり、どれが正しいか判断するのは難しい。その中で、最も三成の捕らわれ方として相応(ふさわ)しいのが、古橋の岩窟説だと言えよう。歴史を学ぶ者として、「相応しい」という判断は禁物かもしれないが、この岩窟に行く度、三成が隠れた場所としての印象を強くするのは不思議である。

「オトチの岩窟」に到着した三成ツアー

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年11月10日掲載)

掲載日: 2026年04月24日