浅井三代の話から、長政と市の間に生まれた三姉妹の話に移ろう。
小谷城の南東に当たる長浜市平塚町にある実宰院(じっさいいん。昭和29年までは実宰庵)は、浅井長政の姉に当たる実宰庵昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)が再興した寺院である。当院にある位牌によれば、見久尼は天正13年(1585)に49歳で死去したとあるので、逆算すると天文6年(1537)の生まれ。長政は天文14年(1545)の生まれだから、確かに長政の姉となる。身の丈(たけ)5尺8寸(約176センチ)、体重は28貫(約105キロ)の非常に大柄な女性であったと伝えられている。
寺伝によれば、落城に際して浅井長政は、姉の見久尼に三姉妹の養育を依頼し、尼は無事にこの平塚の地で三姉妹を養育したと言われる。落城時に、信長軍が残党狩りにこの寺にやってきたが、尼は咄嗟(とっさ)に2反(たん)の布でつくられた法衣の袖に三姉妹を隠し、難を逃れたという。実宰院には三姉妹の長女・淀によって寄進されたとされる見久尼の木像が、今も本堂に安置されている(写真)。『江北史料図彙(ずい)』(明治時代)によれば、木像には尼の「歯骨」4個が収められているという。

この見久尼をめぐる寺伝を、間接的に裏付ける文書が、寺に残る慶長2年(1597)5月1日の豊臣家四奉行連署状である。長束正家・増田長盛・浅野長政・前田玄以の四奉行が連署して、実宰庵の跡目については、現在の住持尼の望み次第とすると、秀吉の意向をくんで伝えたもので、宛名は三姉妹の次女・初の夫の京極高次になっている。秀吉死去の前年に、京極高次がこの寺の運営に大きく関わっていたこと、さらにはその住持について淀の夫である秀吉に報告することが必要な程、豊臣家と実宰庵が深い関係にあったことを示している。
さらに、寺には豊臣秀吉が天正19年(1591)4月23日、実宰庵に50石の寺領を寄進した朱印状が残る。この土地は江戸時代には、実宰庵の経営の基本となる所領となった。秀吉が同庵に土地を寄進したこと自体、この寺の行く末に三姉妹の縁者である秀吉が深い関心を示していたことを類推させ、三姉妹が一時身を寄せていた証拠になろう。
小谷落城後の三姉妹の行方については、通説では『浅井三代記』などによって、伊勢国上野城(三重県津市)の織田信包(のぶかね)の許に送られたと説かれる。ただ、実宰庵の伝承や史料の方が具体的で真実性があり、江戸時代の軍記物によった伊勢国上野説より信憑性は高いと思っている。今後の大河ドラマでは、三姉妹の逃避先として実宰庵を描いて欲しいものだ。
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年10月18日掲載)




