【湖北史記 其の14】浅井久政の人物像

 今年(2022年)は、浅井久政・長政の450回忌に当たるという話は前回した。長政の命日は9月1日だが、その父・久政の命日は陰暦でその前日となる8月29日になる。その死の直前に当たる8月27日、伊香郡西野村(長浜市高月町西野)の家臣・西野弥次郎に対して、小谷籠城戦に加わったことに対して礼状を出している。この段階では、領地などを与えても空(から)証文になるので、感謝の念のみ伝えている。謝辞しか記さないのは、戦国大名の書状として異例だ。

 この浅井久政という人物、高野山に寿像(じゅぞう。生前の肖像画)が残っているが、実に精悍(せいかん)な凛々(りり)しい顔をしている。しかし、これまでの浅井氏研究の中では、父(亮政)や長政(子)に比べ大将の器量にかけ、人望もなく、その政策は失笑をかうものだったという。だが、これは江戸時代に編纂(へんさん)された『浅井三代記』などの誤伝と私は見る。亮政の時代は南の六角氏と対決姿勢が鮮明だったが、久政は六角氏に対し融和政策を取り、従属状態ながら、戦いのない安定した政権を保った。北近江に「平和」をもたらしたという意味では、亮政や長政より名君とすら思う。

 残された古文書から、久政は龍ヶ鼻(たつがはな。長浜市東上坂町)付近の姉川左岸と右岸の村の用水争いを裁いたりして、領国内の灌漑(かんがい)用水争いの解消を図っている。紛争解決の中で最も大きな仕事は、高時川の「餅の井(もちのゆ)」をめぐる調停であった。「餅の井」は、小谷城下となる現在の小谷小学校区の村々を灌漑する用水だが、本来は伊香郡高月町域を灌漑する大井(おおゆ)・下井(しもゆ)より、高時川下流に取水口があった。これを、久政は小谷城下の村々への取水を優先させ、「餅の井」の取水口を大井・下井より、上流に付け替えたのである。これを、「餅の井」の「懸け越し」という。政治的判断で、通常の用水慣行に背いてまでも、城下への引水を優先させた。

 その替わり、久政は伊香郡の大井・下井を統括していた伊香郡井口村(長浜市高月町井口)の家臣井口経元(つねもと)の娘を、自らの正室に迎えたのである。阿古御料(あこのごりょう)・小野殿とも言われる女性で、井口氏は浅井氏の縁族となることで、政権における発言力を増していく。この阿古御料こそ、浅井長政の生母であった。また、その力ゆえに、織田信長に疎まれ、小谷落城後、捕縛され十指を一本ずつ切られて亡くなったという悲劇の女性でもある。

 久政は浅井氏政権内における内政重視の代表だったが、対外強硬派の家臣に押された長政に抗することができず、36歳にして隠居を迫られた。長政と同じ450回忌を迎える久政にも、もう少しスポットを当てたいものだ。

 

「餅の井」・大井・下井を統合して昭和53年に出来た合同井堰

 

淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司

(滋賀夕刊 2022年9月14日掲載)

掲載日: 2026年04月16日