長浜曳山祭が、天候に少々悩まされながらも無事終わった。曳山祭は、言うまでもなく「長濱八幡宮」の春の祭礼を町民が祝うものだが、羽柴秀吉の「まちづくり」と大きく関わっている。そもそも、秀吉がこの地に築城する以前は、この神社は「長濱八幡宮」とは言わなかった。「其の1」で話したように、「長浜」の地名が秀吉以降なのだから、それ以前の中世・戦国時代に「長濱八幡宮」という名前があるはずがない。では何と言ったか。
同宮に残る史料には、「江州(ごうしゅう)坂田郡八幡別宮」とある。「長濱八幡宮」の草創については、さまざまな説があるが、平安時代に京都の石清水(いわしみず)八幡宮が、今の長浜市街地に移された神社と見るのが、最も史実に沿った見解だ。だから、石清水八幡宮の坂田郡にある「別宮」の意味で、上記の社名がつけられた。
ところで、秀吉以前の「坂田郡八幡別宮」は、どこにあったか。この疑問には、二つの説がある。その一つは、長浜市街地の八幡町(やわたまち)にある神明神社付近という説である。神明神社は「よじむ湯」(閉業)という銭湯の西隣にあたる。付近の旧町名を八幡町というのも、かつて八幡宮があったことに由来する。
もう一説は、八幡宮の由来記に出てくる話で、大手町の小山仁右衛門宅付近であったという。小山仁右衛門宅は、今も大手門通りにある小山仁商店。どちらが正しいかは判断がつかないが、秀吉以前の八幡宮は今よりも広大な敷地を有していたと思われるので、前者から後者の区域全体をカバーしていた可能性が高い。要は、現在の長浜市街地全域が八幡宮境内だったと考えられる。
羽柴秀吉は、天正2年(1574)、長浜城下町の築造にあたり、この八幡宮を東へ大移動させて、そこに広大な空き地を造り、思うように碁盤目状の城下町を造成したのである。言ってみれば、真っ白な紙の上に、意図通りの都市計画が実行できた。これが、新時代の都市計画による近世城下町・長浜を生んだ背景であった。信長の岐阜や安土は、前代の町の区画に規制されて、思うような都市計画ができなかったのとは好対照である。
こう考えれば、長浜の「まちづくり」が成功したのは「長濱八幡宮」のおかげと言える。その意味で秀吉は同宮の復興に力を尽くしたし、町人も神の東への遷座に感謝しただろう。曳山祭はその神の「引越し」への感謝の祭とも言える。

長浜八幡町の神明神社
淡海歴史文化研究所 所長 太田浩司
(滋賀夕刊 2022年4月20日掲載)




